大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

東京地方裁判所 昭和48年(モ)10415号 判決 1976年5月26日

債権者 甲野花子

<ほか四名>

右債権者ら訴訟代理人弁護士 唐沢高美

同 小又紀久雄

同 矢島宗典

債務者 乙山春子

右訴訟代理人弁護士 丙川和夫

同 竹川哲雄

主文

一  甲野太郎と債務者との間の当庁昭和四八年(ヨ)第四、四五七号債権仮差押申請事件について、当裁判所が同年七月一三日になした仮差押決定は、これを取消す。

二  債権者らの本件仮差押申請は却下する。

三  訴訟費用は債権者らの負担とする。

四  この判決は、第一項にかぎり、仮に執行することができる。

事実

第一当事者の求めた裁判

債権者ら

一  主文第一項掲記の債権仮差押決定を認可する。

二  訴訟費用は債務者の負担とする。

債務者

主文第一項ないし第三項と同旨。

第二当事者の主張

一  債権者らの申請の理由

1  被保全権利

(一) 債権者甲野花子(以下「花子」という。)は、亡甲野太郎(以下「太郎」という。)の妻で、その他の債権者らは同人らの子である。

債務者は、妻子のある太郎と十数年来妾関係にあった者である。

(二) ところで、太郎は、昭和四七年六月二七日脳血栓で倒れて以来、全身麻痺・言語障害に陥り、かつ、識別・判断能力も極度に低下し、自分の息子の識別はおろか、娘の人数および3+1の計算さえ間違える状態であった。

しかるところ、債務者は、太郎の右のような状態を奇貨として、太郎が申請外株式会社平和相互銀行大森支店に対して有する預金債権を領得しようと企図し、昭和四八年五月二三日太郎の入院先の静岡県○○郡○○○町所在の○○○温泉病院(以下「本件病院」という。)に申請外弁護士丙川和夫(以下「丙川弁護士」という。)を伴って赴き、同日およびその翌日の二日間のうち、二度に亘って太郎を車椅子に乗せて同人の主治医である大土井淑郎医師(以下「大土井医師」という。)の部屋に連れ込み、同所で債務者が太郎に対し婚姻予約不履行に基づく慰藉料請求権があるかのように申し向け、これを認めるよう執拗に長時間交渉し、五月二四日やむなく太郎がそれを認めるや、直ちに、債務者および丙川弁護士は、太郎にかねて用意していた大要次の如き債務確認並びに弁済契約書に署名捺印させた。すなわち、それは、

(1) 太郎は、債務者に対し、婚姻予約不履行等による損害賠償として、少なくとも五、〇〇〇万円を下らない慰藉料の支払義務があることを確認する。

(2) 太郎は、債務者に対し、右の債務の一部の履行として、本日、平和相互銀行大森支店の太郎名義の次の各預金債権を譲渡する。

(イ) 元本金一、三七一万七、四四七円也の定期預金の元利金。

(ロ) 元本金一、八〇〇万円也の定期預金の元利金。

(ハ) 元本金一、二四八万六、八〇一円也の普通預金の元利金。

(3) 太郎は、債務者に対し、右(1)記載の債務の残部の履行に代えて、太郎所有の有限会社○○○ハイツの持分二、三五〇口(約二八〇万円相当)を死因贈与することを約し、債務者はこれを受諾した。

というものである(以下これを「本件契約」という。)

(三) しかしながら、太郎は、本件契約当時前記のとおり意思能力がなかったから、本件契約は無効であり、その証左に太郎は本件契約の無効を主張して弁護士に訴訟委任をした。

(四) 仮に、そうでないとしても、本件契約は債務者が前述のように、身体の自由がきかず、かつ、判断能力の低下していた太郎を主治医の部屋に連れこんで、その無思慮・急迫に乗じて締結されたものであるから、公序良俗に反し無効である。

(五) 仮に、そうでないとしても、本件契約は、妾関係の存続を目的とした多額の財産出捐契約であるから公序良俗に反し無効である。

(六) 仮にそうでないとしても、債務者は、前記のように判断能力の低下していた太郎に対し、あたかも、太郎が債務者に対して婚姻予約不履行に基づく損害賠償義務があるかのように申し欺き、太郎をその旨誤信させて締結された契約であるから、それは、詐欺により取消し得べき契約というべきところ、太郎は、債務者に対して、本件契約を取消す旨の意思表示をし、右意思表示は昭和四八年八月二五日債務者に到達した。

(七) しかるに、債務者および丙川弁護士は本件契約締結後直ちに、本件契約に基づき、前記平和相互銀行大森支店に対し債権譲渡通知をし、前記譲渡を受けた預金債権(以下「本件預金債権」という。)の弁済を受けようと画策したが、同銀行より支払を拒絶されたので、かくなる上は、本件契約書を利用して太郎を相手に裁判所に支払命令の申立をして債務名義を取得し、それによって本件預金債権の差押および転付命令を受けようと企図し、その目的を達するのに都合のよいように、太郎の住所は千葉県千葉市○町であり、また、当時の太郎の入院先は本件病院であったから、いずれによっても大森簡易裁判所の管轄には属しなかったにもかかわらず、太郎の住所を債務者の本件肩書住所と偽り、かつ、送達場所を太郎の入院先である本件病院と指定して、昭和四八年六月一日大森簡易裁判所に対して太郎を相手に本件契約に基づく慰藉料請求債権の内金四、四二〇万四、二四八円の支払命令の申立(同庁昭和四八年(ロ)第四一九号督促事件)をした。

そして、右事情を知らない大森簡易裁判所は、同月五日支払命令を発し、同裁判所は太郎に対する右命令正本を本件病院宛に発送した。

ところが、債務者は本件病院の職員らが債務者を太郎の妻と信じていることを奇貨として、同月七日太郎に対し送達された右支払命令正本を本件病院の受付係から受領して隠匿し、太郎がこれを覚知することを妨げて太郎の異議申立をする機会を失わせ、ついで債務者は、同裁判所に対し、右支払命令に対する仮執行宣言の申立(同庁昭和四八年(サ)第四四二号事件)をし、これにより同月二五日同裁判所が仮執行宣言付支払命令を発するや、またも右病院受付係が同月二七日受領した太郎宛の右命令正本を受領してこれを隠匿した。

かくして、債務者は、右仮執行宣言付支払命令正本を債務名義として管轄権のない静岡地方裁判所沼津支部に対し、太郎の本件預金債権三口合計金四、四二〇万四、二四八円の差押及び転付命令を申請(同庁昭和四八年(ル)第七一号、(ヲ)第七七号事件)し、これに対し、同支部は、昭和四八年七月二日債務者の申請どおりの債権差押及び転付命令(以下「本件差押及び転付命令」という。)を発し、同命令正本が太郎及び前記銀行に送達されたことにより太郎の本件預金債権の内金四、四二〇万四、二四八円が債務者に転付され、これによって太郎は同額の損害をこうむったものである。

(八) 仮に右主張が、いずれも理由がないとしても、太郎の前記預金債権は、すべて、譲渡禁止の特約があり、かつ、債務者はそれを熟知していながら、これについて、あえて本件差押及び転付命令を申請した。このような債務者の行為は権利の濫用であるから本件差押および転付命令は無効というべきである。

(九) 以上の事実によって明らかなように、太郎の右損害は債務者が太郎に対し、実体上何らの請求債権を有しないにもかかわらず、その上、太郎の訴訟法上の防禦権を侵害して取得した債務名義により又は、そうでないとしても、前記のように、管轄権のない裁判所が発した命令だから無効というべき、右債務名義、或いは右同様管轄権のないことと、さらには、譲渡禁止の特約が存することによって無効というべき本件差押及び転付命令により太郎に対し、右のような損害をこうむらしめたものであるから、太郎は、債務者に対し不法行為に基づく右の損害賠償請求権、若しくは右損害額相当の不当利得返還請求権を有するものというべきである。

2  保全の必要性

太郎は、前記仮執行宣言付支払命令に対し異議申立をするとともに、債務者に対し不法行為に基づく損害賠償請求の訴を提起すべく準備中であるが、債務者は本件被差押債権以外に財産がないので、これをこのまま放置すれば、その支払を受けたりするおそれがある。かくては、太郎が後日本案訴訟で勝訴の判決を得ても、その強制執行が不能または著しく困難となることは明らかである。

3  本件仮差押決定

そこで、太郎は、債務者を相手方として東京地方裁判所に対し、債権仮差押の申請をしたところ(同裁判所昭和四八年(ヨ)第四四五七号事件)、同裁判所は、昭和四八年七月一三日太郎に金一、二〇〇万円の保証を立てさせたうえ、別紙仮差押債権目録記載の債権を仮に差押える旨の債権仮差押決定(以下「本件仮差押」という。)をした。

4  しかるところ、太郎は、昭和四九年二月一二日死亡し、同人の右損害賠償請求債権は、その妻債権者花子が二七分の九、およびその子債権者月子・同一郎・同二郎・同星子が各二七分の四、申請外乙山秋子が二七分の二ずつそれぞれ相続により取得した。

5  よって、右決定の認可(ただし、前記乙山秋子は、本件申請を取下げたので、同人の相続分に対応する部分を除く。)を求める。

二  申請理由に対する債務者の認否

1  申請理由1(一)は認める。

2  同1(二)のうち、太郎が脳血栓で倒れて以来全身麻痺・言語障害に陥り、本件病院に入院していたこと及び本件契約の成立、その日時・場所・内容、本件契約締結に丙川弁護士が関与した事実は認め、その余は否認。五月二三日は、太郎を大土井医師の部屋に連れ込んだのではなく、太郎の病室を訪ねただけであり、滞留した時間も約三〇分である。五月二四日太郎を診察室に連れて行ったが、本件契約締結に要した時間は午前の約二時間である。

3  同1(三)のうち、訴訟委任をしたことは認め、その余は否認。

4  同1(四)は否認。

5  同1(五)は否認。債務者が太郎の妾になったのは、すべて太郎にその責任があること、本件契約の目的が債務者とその子の生活の維持及び非嫡出子である秋子の相続分が過少となることの是正にあったこと、並びに本件契約が、債務者に太郎との妾関係の継続を強要するようなものは何も含んでいないこと等により、何ら公序良俗に反するものではない。

6  同1(六)のうち、本件契約を取消す旨の意思表示があった事実は認め、その余は否認。

7  同1(七)のうち、太郎の住所を偽ったこと、支払命令正本等を隠匿して太郎の異議申立の機会を失なわせたこと、太郎が四、四二〇万四、二四八円の損害をこうむったことは否認し、その余は認める。太郎は、住民登録は千葉市にしてあるが、債務者と昭和三一年一〇月五日以降本件病院に入院するまで同棲しており、当然に両名の住所は同一である。太郎への送達場所を本件病院としたのは、太郎が既に六ヵ月余前記病院で起居しており、さらに、六ヵ月ないし一年はそのような状態が継続する見込みであったので、本件病院が住所ないし居所に準ずる場所であったからである。

8  同1(八)の主張は争う。

9  同1(九)の主張は争う。

10  同3は認める。

11  同4のうち、太郎が死亡したこと、債権者らがその相続人であることは認め、その余は否認。

12  同5のうち、秋子が本件申請を取下げたことは認め、その余の主張は争う。

三  債務者の主張

本件契約が妾関係に基づくため公序良俗に反し無効であるとするならば、本件契約のうち、債権譲渡の部分は不法原因給付となる。してみれば、不法原因給付者に給付物の返還請求権を認めない民法第七〇八条の趣旨に鑑みれば、右給付の返還に代る損害賠償請求権の行使についても、同条が類推適用されるべく、従って、債権者らの主張する本件被保全権利は排斥されるべきである。

四  債務者の主張に対する債権者らの認否

債務者の主張は争う。

第三疎明≪省略≫

理由

一  花子が太郎の妻で、その他の債権者らは同人らの子であること、債務者は、妻子のある太郎と十数年来妾関係にあったこと、昭和四八年五月二四日太郎と債務者との間で本件契約が締結されたことについては各当事者間に争いがない。

二  ところで、本件契約は、その締結時太郎に意思能力がなかったから無効である旨の債権者らの主張について判断するに意思能力とは、自分の行為の結果を判断し得る精神的能力であって、正常な認識力と予期力とを包含するものであると解すべきところ、太郎は、昭和四七年六月二七日脳血栓で倒れて以来、全身麻痺・言語障害に陥り、本件契約締結時には、本件病院に入院していた事実は各当事者間に争いがなく、そして、≪証拠省略≫には、債権者の右主張に副う部分があるが、しかし、右各疎明は、後掲疎明及びこれによって認められる事実に照し、たやすく措信することが出来ず、他に、債権者の右主張を認めるに足りる疎明はない。

すなわち、≪証拠省略≫を総合すれば、債務者は、昭和四八年五月二三日丙川弁護士を伴って、本件病院に赴き、まず、太郎の主治医である大土井医師に面会を求め、同医師に対し、太郎との間で本件契約を締結したいが太郎にその判断能力があるか否か訊ねたところ、同医師は、それについては即答しかねるので、同日夜太郎の判断能力の有無をテストし、その結果を明日伝える旨の返答をしたので、とりあえず、その日は辞去し、翌朝再度大土井医師に面会したところ、同医師は、昨夜テストを実施した結果、太郎には本件契約を締結するについて充分な判断能力がある旨回答したこと、同医師は、所謂精神鑑定医ではないがリハビリテーション専門の本件病院の副院長であって、脳溢血・脳軟化・脳血栓等に起因する言語・運動障害等の患者多数の診断・治療を日常の業務としていることが認められ、右事実によれば、このような患者は、その障害がそもそも脳の機能障害に由来するところから、多くは精神能力についても何らかの障害を伴うこと、従って、その診断・治療に当る医師は、常時、患者の身体・精神両面の観察と判断を不可欠とするであろうことは容易に推認することが出来、右認定に反する疎明はない。右事実によれば、太郎は本件契約締結時に意思能力がなかったとの債権者らの前記主張は到底認めることは出来ない。

なお、太郎は、債務者との間の本件契約の効力を争って弁護士に訴訟委任をした事実は各当事者間に争いがないが、他方、≪証拠省略≫によれば、太郎が右訴訟委任をしたころには、債権者らが従前太郎の世話をしていた債務者を排除して、太郎を債権者らの支配下においていたこと及び太郎の判断能力が本件契約締結時と右訴訟委任をした時点との間に格別の差異があったとは認め難いことから、太郎が訴訟委任をした事実をもって、前記判断を何ら左右するに足りないものというべきである。

三  次に、本件契約は、太郎の無思慮・急迫に乗じて締結されたから、公序良俗に反し無効である旨の債権者らの主張については、本件全疎明によるも、これを認めるに足りないから債権者らの右主張は採用の限りでない。

四  進んで、本件契約は、妾関係の存続を目的とした多額の財産出捐契約であるから公序良俗に反し無効である旨の債権者らの主張について検討する。

≪証拠省略≫を総合すれば、債務者は、昭和二八年結核予防会に事務員として勤めていたころ、○○銀行○○支店の貸付課長であった太郎と知り合ったが、そのときの両者の年令は、債務者が二二才、太郎が四三才であったこと、太郎には当時すでに妻子があり、債務者もそのことは知っていたこと、太郎と債務者は、昭和三〇年一〇月一二日情交関係を持って以来、約一年間その関係を継続した後、約一七年間に亘る同棲生活を営み(ただし、太郎は週末には千葉県所在の本宅に帰るのを常としていた。)、その間の昭和三六年五月には一女(「秋子」と命名。)をもうけたこと、しかして、これらの関係は、両者の社会的地位その年令差等からすべて太郎の主導の下に行われたと推認するに難くないこと、同棲を始めてから昭和四二年四月ころまでの生計は、債務者の経営する小料理店の収益で維持し、その後は太郎が負担したこと、債務者は、太郎の求めによって、太郎の本妻との間の三男を四年間、次男を二年半に亘り同居せしめて世話をし、かつ、昭和四四年ころには、太郎の本宅における仏事を取り仕切ったこともあること、その間太郎は債務者に対し、いずれ本妻とは離婚して債務者と婚姻すると約束し続けたこと、ところが、諸般の事情からこれが履行されないでいるうちに、太郎は、昭和四〇年一二月第一回の脳溢血による発作を起したのを契機に債務者とその子秋子の将来の生活のことを真剣に考えるようになり、そのための手段としてマンションを建設してその一部を同人らの住居にあて、残部を賃貸して、その賃料収入で同人らの生計を維持させるべく計画を立てたこと、右マンションの経営主体を法人とすることとして昭和四四年八月有限会社○○○ハイツを設立し、同社に太郎所有の土地を出資し、マンションの建築費用は本件預金のうち定期預金二口を充てる予定であったこと、右有限会社○○○ハイツの持分を債務者三、〇〇〇口、秋子二、六〇〇口、太郎二、三五〇口ずつ、それぞれ配分することになっていたこと、ところが、鉄筋コンクリート三階建マンションの建築確認を得、まさに請負契約を締結しようとしていた矢先の昭和四七年六月二四日太郎は脳血栓による発作を起し、右計画は一時中止のやむなきに至ったこと、しかるにその後、債務者は、太郎の息子らが右マンション建設計画を引き継いでこれを遂行すべく意図し、本件定期預金の解約を求めて平和相互銀行と交渉しているとの噂を聞知したので、かくては右マンション建設の当初の目的が達せられないのではないかと懸念し、かくなる上は、太郎の息子らの前記介入を排除して自らマンションの建設計画を進めるべく、そのためには、太郎の本件定期預金債権二口のほか、建設計画が一年遅延したことによる建築資材の高騰を考慮し、本件普通預金債権をも含めて太郎から譲り受けるべく意図したこと、しかして、譲渡の原因を税金対策上さらには実体法上も債務者の太郎に対する前記婚姻予約不履行の存することに着眼して、これが不履行に基づく損害賠償請求債権としたこと、そのころの太郎には、四、五億円相当の財産があったことが一応認められ(る。)≪証拠判断省略≫

右事実によれば、債務者は、太郎の所謂妾であったというべきところ、一般に妾に対して金銭その他の物を供与することがその不倫関係の維持継続を強要するためのものとして、これと不可分の関係に立つ場合には、右のような契約は、公序良俗に反するものとして無効であるべきであるが、妾に対する財産的利益の供与がその生活を維持するに必要な範囲のものである限りにおいては、これを公序良俗に反するものとして、その効力を否認すべきものではないと解するのが相当である。

これを本件についてみるに、妾的地位の維持が目的となっている一面のあることは必ずしも否定することは出来ないけれども、本件の財産の供与の主目的は、債務者およびその子の将来の生活が困らないようにとの配慮に出たものであることが一応認められること、その額も、太郎と債務者との前記第四項認定の関係及び太郎の資産を考慮すれば必ずしも過大とも言えず、かつ、太郎が債務者に対し本件財産出捐によって妾関係を強要しようとした事跡を認めうる疎明もないこと等によれば、本件契約は民法第九〇条に違反し無効と解すべきではない。従って債権者らの右主張は採用できない。

五  また、本件契約は、債務者の詐欺により締結されたから取消し得べき契約であったところ、太郎は、債務者に対し本件契約を取消す旨の意思表示をしたとの債権者らの主張について判断するに、太郎が債務者に対し、本件契約を取消す旨の意思表示をし、これが昭和四八年八月二五日債務者に到達した事実は各当事者間に争いがないが、本件全疎明によるも、債務者が本件契約を締結するに際し、太郎を欺罔し、その結果、太郎が錯誤に陥って本件契約を締結したとの事実を認めるに足りる疎明はないから、債権者らの右主張も採用の限りでない。

六  次に、債権者らは、債務者が故意に太郎の住所を偽り管轄権のない裁判所に支払命令の申立をし、それによって取得した債務名義で、前同様管轄権のない裁判所に本件債権差押及び転付命令を申請して同命令を発せしめ、しかも太郎宛に送達された右支払命令正本を隠匿する等して太郎の訴訟法上の防禦権を侵害した。従って、右各命令は、管轄権のない裁判所が発したものだから無効であり、或いはそうでないとしても、右債務名義太郎の訴訟法上の防禦権を侵害して取得したものだから無効である旨の債権者らの主張について判断する。

債務者が本件契約締結後、直ちに、本件契約に基づき、前記平和相互銀行大森支店に対し債権譲渡の通知をし、本件預金を引き出そうとしたが、同銀行より支払を拒絶されたので本件契約書を利用して、太郎を相手に昭和四八年六月一日債務者の住所地を管轄する大森簡易裁判所に支払命令の申立をしたこと、その際太郎に対する右命令正本の送達場所を太郎の入院先である本件病院に指定したこと、かくして、債務名義を取得した債務者は、昭和四八年七月右銀行に対する太郎の本件預金債権の差押および転付命令を太郎の入院先の本件病院を管轄する静岡地方裁判所沼津支部に対し申請したので、同裁判所は同命令を発し、同命令正本が太郎及び前記平和相互銀行に送達されたことによって、太郎の本件預金債権の内金四、四二〇万四、二四八円が債務者に転付されたことは各当事者間に争いがない。

そこで、太郎に対する前記各命令申請事件が右各裁判所の管轄に属するか否か検討する。

そもそも、民事訴訟法上普通裁判籍を決定し、かつ、訴訟書類の送達を受くべき場所となる住所は、問題となった訴訟当事者に対し訴訟が提起されたこと、さらに、その訴訟がいかなる内容のものであり、どのように進行しているかを了知させるという考慮に基づいてこれを定むべきであるから、その当事者の主観的意思いかんにかかわりなく、その者の全生活を客観的に観察して、その者が現実に常住し、実質的な生活活動を営み、訴訟書類を受領し得る場所を以てその者の当該時点における住所と認むべきを相当とするところ、これを本件について見るに、なるほど弁論の全趣旨によれば、太郎は住民登録は千葉県千葉市○町にしてあるが、しかし、前記第四項に詳述したとおり同人は、十数年来、同所には周末に帰るのみで、その他は殆んど債務者と同居していたから、同人は債務者と同一の住所に常住し、同所で実質的な生活活動を営んでいたと言って差し支えなく、してみれば、同人の住所は客観的に観察して債務者の肩書住所と同一というべく、従って、債務者が太郎に対する支払命令の申立を右住所を管轄する大森簡易裁判所に申請したことは、何ら違法ではない。また、太郎は、右支払命令申立時点においては、本件病院に入院していたのであるから、送達場所を同病院にしたことも民事訴訟法第一六九条の規定に照し適法というべきである。

なお、右支払命令申立時点における太郎の住所が、前記の場所にあると認められる以上、同時点における同人の右住所に対する土地管轄は静岡地方裁判所にはないというべきであるから、そのころ、債務者が本件債権差押及び転付命令を静岡地方裁判所沼津支部に申請し、同支部が右命令を発したのは、債権者らが主張するとおり違法というべきであるが、しかし、管轄権のない裁判所の発した右命令も、当然には無効と解すべきではないから、この点に関する債権者らの右主張は失当として排斥を免れない。

また、債権者らは、債務者が太郎に送達された前記支払命令申請事件の命令正本等の関係書類を隠匿する等して、太郎の訴訟法上の防禦権を侵害したと主張するが、本件全疎明によるも右事実を認めるに足りる疎明はない。

七  さらに、債務者は、太郎の本件預金債権がすべて譲渡禁止の特約があることを熟知していながら、これについて本件債権差押及び転付命令を申請したのは権利の濫用というべく、従って、同命令は無効であるとの債権者らの主張について判断する。

本件弁論の全趣旨によれば、本件各預金債権にはそれぞれ譲渡禁止の特約が存することが一応認められる。ところで、≪証拠省略≫によれば、丙川弁護士は、債務者が本件契約により本件各預金債権の譲渡を受けた後、平和相互銀行大森支店に赴き、同支店長に対し、太郎は債務者に対し本件各預金債権を譲渡した旨通知をし、これに対する承諾と任意の支払を求めたところ、同支店長は、太郎が申請外○○電器株式会社の同銀行に対する債務の連帯保証をしていること及び太郎の息子等は当然本件債権譲渡をしたことについて快く思う筈がないこと、しかるに、太郎が入院中のため、右○○電器の実績は同人の息子である一郎と二郎が掌握しているので、仮に、同銀行が債権譲渡したことについて承諾と任意の支払に応じるならば、同銀行と右会社の将来の取引に悪影響を及ぼすおそれがあるとの理由で、右承諾および任意の支払を拒んだ。そこで、債務者は、やむを得ず、本件差押および転付命令の申請に及んだことが一応認められ、右認定に反する疎明はない。

ところで、なるほど譲渡禁止の特約のある債権であっても、差押債権者の善意・悪意を問わず、転付命令によって移転することができるものであって、これにつき、民法第四六六条第二項の適用はないと解するにしても、譲渡禁止の特約による当事者の利益が強制執行に藉口して不当に侵害される場合には、権利濫用禁止の法理によって、個別的救済のはかられるべき余地のあることは否定できないが、これを本件についてみるに、前記認定した事実によれば、債務者が本件各預金債権について、本件差押および転付命令を申請したからと言って、太郎の権利が不当に侵害されたとは到底認め難いから債権者らの右主張は採用できない。

八  申請の理由3の事実(本件仮差押決定)は各当事者間に争いがないところ、前記説示によって明らかな如く、債権者ら主張の債務者に対する被保全権利はその疎明がないと言わざるを得ず、しかも、保証をもって疎明にかえることも相当ではない。

よって、太郎の本件仮差押申請を容れてなした原決定はいずれも失当であるから、これを取消し、債権者らの本件各仮差押申請を却下し、訴訟費用の負担について民事訴訟法第八九条・第九三条を、仮執行の宣言について同法第一九六条をそれぞれ適用して主文のとおり判決する。

(裁判官 永吉盛雄)

<以下省略>

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例